名寄岩(なよろいわ) 生誕100年記念展を見るため名寄まで行くか迷って結局行くことにした私(詳細は【その1】参照)。
旭川市から名寄市までは車で二時間。私は、乗り物酔いしやすいこともあって、移動時間というのが得意ではありません。片道二時間というのはかなり厳しい。
だけど行くと決めたのです。根性~~!!
はるばる名寄へ
↑自宅を出発してから30分。名寄まであと70kmという表示。
↑士別市に入りました。あと26km。
↑あと12km。もうすぐだ~~!
そして……。
到着
↑着いた~~!! 名寄市北国博物館です!!
↑中に入るとすぐに大きな立て看板! 「名寄岩生誕100年記念展」!!
赤ちゃん時代から
↑なんと!! 名寄岩の貴重な赤ちゃん時代の写真からスタート! 生後二ヶ月なのに首が据わっている!
名寄岩(本名:岩壁静男)は、養豚業と野菜類の販売を営む岩壁家の長男として、大正3年9月27日に生まれました。
↑名寄岩四歳。妹、母とともに。
この、名寄岩の母「ハシ」さんはお灸が得意で、神経痛や肩こりによく効くことから多くの人が訪れていたものの、鍼灸の免許状を持っていなかったために正式に開業できずにいました。
そこで白羽の矢が立ったのが長男の静男です!
静男に鍼灸の免許を取らせ、将来的に「養豚と鍼灸」で岩壁家の経済を成り立たせようとしたのです。
16歳で上京
そして、名寄中等夜学校卒業後、鍼灸師になるため16歳で上京した静男少年! 東京鍼灸医学校に通いますが、その学校があったのは両国ビルの二階。すぐそばに立浪部屋(たつなみべや)がありました。
その体躯の良さに立浪部屋の力士が目をつけ、静男少年を勧誘。親に了承を得て、静男少年は立浪部屋に入門(16歳)。兄弟子には、のちの大横綱・双葉山(ふたばやま)がいました。
↑親方の現役時代の四股名(緑島)の「緑」と、立浪部屋の「浪」を取った「緑浪」という四股名を親方から提案されるも、「もっと強そうな四股名が良い」と、出身地(名寄)と名字(岩壁)から字を取った「名寄岩」として昭和7年に17歳で初土俵。(写真は幕下(20歳)の頃)
↑昭和10年、三段目(20歳)で全勝優勝。昭和11年、幕下(21歳)でも全勝優勝し、同じ年の十両を1場所で突破。昭和12年には新入幕を果たすというスピード出世ぶり(写真は十両(21歳)の頃)。
なんという強さ。このまま横綱まで駆け上がるのか? そう思わせる大器でしたが、この後、名寄岩は波瀾万丈の力士人生を歩みます。
大関昇進、その後
↑クリックで拡大します。
↑22歳で新入幕した後、23歳で関脇に昇進(写真は関脇の頃)。
↑気迫をみなぎらせ、相手に鬼のような憤怒の形相で立ち向かっていくことから「怒り金時」というあだ名がつきます(金時とは金太郎のこと)。
↑27歳~32歳まで、途中で関脇に落ちることがありながらも大関を合計6場所務めます。(写真は大関(28歳)の頃)
問題はその後です。名寄岩は32歳の頃(昭和22年)、リューマチを患って一場所全休。
治りきらないまま次の場所に強行出場して大関なのに全敗。ここで関脇に陥落します。
闘志を燃やす名寄岩ですが、翌年(昭和23年)吐血。胃潰瘍との診断が下りました。
結局、80日間は寝たきり。結果、136㎏あった体重は88㎏まで減り、焦った名寄岩は「絶対安静」と言われているのに残りの40日で無理に体を動かし、全四ヶ月間の入院生活は不完全なものとなります。
その後は三場所連続負け越して、番付をずるずると下げ続けます。かろうじて次の一場所を勝ち越すも、その次はまた負け越し。これで、「次の場所をまた負け越すと十両に陥落」することがほぼ確実に。
病気を抱えながら勝ち越し
若くなくなってきて、それまでの無理が体に出る頃なのでしょう。名寄岩と少年時代に出会って以来ずっと名寄岩ファンである呉直彦(くれなおひこ)医師の勧めにより日大付属病院で診察を受けたところ、「心内膜炎、腎臓病、糖尿病、脚気、高血圧、肩の挫傷、神経痛」等の診断が下されます。
ここで二ヶ月半の入院。
完治しきらぬまま出場した昭和25年5月場所(34歳)。西前頭14枚目の名寄岩は、ここで負け越せば十両陥落という瀬戸際に追い込まれながら、観衆の大声援を味方に、見事に勝ち越します。
↑勝ち越しを決めた一番で、懸賞を受け取る際に「手刀」(てがたな)を切った名寄岩。この「手刀」は江戸時代の勧進相撲で行われていたもののその後は廃れていたのを、名寄岩が復活させました。
懸賞を受け取るときに「手刀」を切る作法が名寄岩から他の力士にも広まり、やがて昭和41年の7月場所から相撲の正式な規則として取り上げられることになります。
そして、病後ながら勝ち越した功績が評価され敢闘賞を受賞。(「涙の敢闘賞」という映画にもなる。原作は池波正太郎の戯曲。主演は名寄岩本人)
糖尿病を抱えながらの相撲
↑糖尿病のため、インシュリン注射を自ら打ちながらの相撲生活をその後も続けます。
↑37歳で二度目の敢闘賞を受賞。
↑38歳でなんと関脇に返り咲きます。
↑39歳、その礼儀正しい土俵態度や、再起不能と思われたところから復活した偉業が讃えられ、「力士の鑑(かがみ)」として日本相撲協会から特別表彰を受けます。
40歳で引退
↑40歳。引退。写真で、名寄岩のまげにはさみを入れているのは、兄弟子の元横綱・双葉山。このときは時津風親方として相撲協会の取締に就いていました。
↑引退後は春日山親方となり、後進を育てます。
●昭和31年(41歳)、相撲協会勝負検査役に就任。
●昭和37年(46歳)、名寄市民会館設備資金として30万円寄附(現在の390万円ほど*1)。
●昭和40年(50歳)、脳出血で右半身が不随に。
●昭和41年(51歳)、相撲協会勝負検査役を退き、参与に。
●昭和43年(53歳)、こつこつ貯めた100万円(現在の800万円ほど*2)を名寄市に寄附し「名寄岩基金」が設立される。
●昭和46年(56歳)、肝臓がんにより逝去。
(参考文献:(2014)『名寄岩物語~砂つけて男を磨く相撲とり~』名寄市北国博物館)
(*1、*2:国家公務員の初任給の変遷(PDFファイル)から計算)
すごい力士
名寄岩という力士の相撲人生、生き様を知り、こんなすごい力士だったのか!! と唖然としました。
大関だったのに全敗?? 大関といえば横綱の次に強いクラスで、今でいうと、「稀勢の里、琴奨菊、豪栄道」らがその地位にいます。
そんな、強いはずの大関が全敗するなんてことが起きたら、ファンは「もうダメなんだ」と思うだろうし、それを潮時としてその力士が引退してしまってもまったく不思議ではないです。
しかも名寄岩は多くの病を抱えました。病気で、負け越しまくりで、入院して、インシュリン注射が手放せなくて、そんな力士、もう誰がどう見ても「絶望的」なのに、名寄岩は諦めなかった。
そして、前頭14枚目という、元大関としては屈辱的な番付まで落ち、ここで負け越せば十両というところで勝ち越す。
それだけで終わらず、なんと38歳という力士としてはかなりの高齢で関脇(大関の次の地位)に復帰。
戦後最年長の新関脇として今年騒がれた豪風(たけかぜ)でさえ35歳です。名寄岩、どれだけすごいんですか。
ちょっと信じられないです。想像しようとしても、想像の域を超えます。映画になるだけありますよ。
なんという不屈の精神ですか。本当に「力士の鑑」と言いたい。
精一杯の相撲道
強さが絶頂のときに発症したリューマチ。そして数々の病気。それさえなければ横綱を狙えた力士だったかもしれない。けれど、病を抱えながらも自分なりの精一杯を尽くした相撲道は、独自の美しい光を放っていました。横綱なんて地位がかすむほどに。
名寄岩のファンになりました!! すごく良い力士だと思います。
名寄岩は、横綱・大鵬(たいほう)のさらに一世代前、昭和7年デビューという本当に古い力士ですが、名寄岩展を見たことで、まるで名寄岩が生きているかのように、とても身近に感じることができました。
名寄岩像が自分の中でイキイキとしていて、今すぐにでも土俵に上がってきてくれそうな気がします。
それにしても……気になるのは、名寄岩に鍼灸師の免許を取らせたかった岩壁家は、その後、どうやって生計を立てたのかということ。
「養豚+鍼灸」でやっていこうとしていて、そのために長男(名寄岩)を上京&鍼灸学校に進学させたのに、名寄岩は相撲部屋に入門してしまった。ある意味、子どもの夢を応援したということでしょうか。でもきっと名寄岩は、両親に仕送りなどしていたのでしょうね。
次回、名寄岩展の展示内容(名寄岩が使っていた座布団、化粧まわしなど)を引き続き紹介します!【その3へ続く】